「富士山の持ち主」移り変わり簡易年表

2020/10/12

富士山の雑学

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「富士山の山頂は誰のもの?」という話がよく出ますよね。
いろいろな文献を調べると多くの資料や複数の説が出てきます。そこで難しく深い内容は専門の文献にお任せして、ここでは簡単に年表にしてみました。

1149年(久安5):末代上人(富士上人)により富士山頂に大日寺が建立される。現在の浅間大社奥宮になっている場所にあたる。

1317~1319年(文保):末代上人の流れをくむ頼尊(らいそん)という行者が「富士行」という組織を作り、信者を引率した富士山での修験道を定着させた。

1338~1573年(室町時代):山頂付近を村山修験が領地として維持管理していたと伝わる。

1609年(慶長14年):徳川家康は富士山頂の噴火口に投入れられていた賽銭を、富士山本宮浅間大社の社殿修理にあてることを決める。これは山頂は浅間大社の境内と認識していたと見られています。

1772年(安永元年):それまで曖昧だった富士山の8合目以上が須走村の支配にあるとして、徳川幕府に訴えを起こす。同時期に「支配境界の論争」が大宮(現在の富士本宮浅間大社)と吉田間でもあったため富士本宮も幕府に訴えることになる。

1779年(安永8年):富士山の八合目以上は大宮の支配となる判決がでて、富士本宮浅間大社の管理地となりました。

1873年(明治6年):太政官布告および太政官達により、浅間大社が管理していた富士山の八合目以上は国有地となります。

1947年(昭和22年):「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律施行令」により、宗教活動に必要と認められる分の土地が譲与される事となる。

1948年(昭和23年):大蔵省に対して「富士山頂」は宗教活動をする上で必要であるため「八合目以上」を譲与してほしいと申請する。しかし申請範囲の一部(約16,4800㎡)しか認められなかった。

1957年(昭和32年):大蔵省の出先機関である東海財務局を相手に「国有境内地譲与申請不許可処分取り消し請求」の訴訟を起こす。

1962年(昭和37年):一審の名古屋地裁は「国有にしておくべき公益上の必要は認められず、八合目以上の全部を神社に譲与すべき」と神社側の主張を概ね認める判決を言い渡した。

1960年(昭和35年):富士吉田市議会が山頂の払下げ反対を決議する。

1967年(昭和42年):二審の名古屋高裁は「一審の判決より国有地を、公益上の観点から増やす」という形で神社側の勝訴とした。

1974年(昭和49年):4月9日に最高裁第三小法廷において、神社側の主張を概ね認める判決が出ました。富士山の八合目以上は「宗教上の儀式又は行事を行うため必要な土地」と認められました。(昭和42(行ツ)86 )
この最高裁判決により、八合目以上の土地について「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」のいう「宗教活動を行うのに必要なもの」に該当し、“国土保安その他公益上又は森林経営上国において特に必要があると認めるもの” 以外が神社側に譲与される事となる。
要するに富士山の八合目以上で山頂観測所や登山道などの公益上必要のある部分以外は、神社の土地と言う事です。

2004年(平成16年):1974年の判決から30年経ちましたが、財務省東海財務局が土地を無償譲与する通知書を神社に交付しました。
譲与された内訳は富士山8合目以上のおよそ405万㎡のうち、富士山特別地域気象観測所や登山道と山梨県道富士上吉田線などを除外した約385万㎡です。

富士山に詳しい方なら八合目以上は浅間神社の土地という事は知られていますが、意外と知られていないのが一時は国有地だった時期があり、裁判で争われた事もあったと言う事ですよね。
しかし…それでは終わりません。
本来なら裁判所の判決により所有権が認められたのですから、第三者にも分かるように土地を登記するところですが、山頂部分で静岡県と山梨県の県境が確定していない為に登記できないと言う事が起こってしまったのです。またその土地は宗教法人所有と言う事で、固定資産税を課税する事も無いので公図も作成されていないそうです。


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